2008年08月03日

「ブルーライン」なのに黄色じゃと?

やっぱり気になるので今日も書いてしもうた。
偽装はこれだけではないぞ。
「品川エディション」で使われるエキシマレーザーは「ブルーライン」というものなのだそうじゃが、これに黄色いカッティングシートを貼て、「SHINAGAWA EDITION」という文字を貼ってあるそうじゃ。
出勤した勤務医は皆唖然としたそうじゃ。
そりゃそうじゃろ。
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2008年08月02日

「品川エディション」と言うそうじゃ。

どうも気になるので今日も書いてしもうた。
「品川エディション」という、3つのコースで最高級とされておるものだが、元職員によると「最高級の品川エディションとは、全くの名ばかりなんです」とのたまわったそうじゃ。
レーシックではレーザーを照射する前にフラップというものをつくるのじゃが、そのフラップを作る機械は一段階劣るコースの「スーパーイントラレーシック」と同じ機械なんだそうじゃ。
その上ウェブサイトに「誤差調整マイクロシステム」とか、「コンディションメーター」を特別搭載などと謳っておるが、「誤差調整」なんて機械に標準で装備された機能であり、しかも「コンディションメーター」はただの温湿度計なんだそうじゃ。
考えてみればあたりまえのことよのう。
金に目がくらんだか?
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2008年08月01日

週刊新潮2008年8月7日号のブログ見つけたり!

週刊新潮2008年8月7日号の記事についてのブログを見つけたのじゃ。
http://blog.goo.ne.jp/lasik_shinagawakinshi
ここじゃ。魂消るのう。
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2008年07月31日

週刊新潮の記事読んだか!

わしはな、戦に勝つために目がよく見えたほうがいいと思い、
レーシックをやろうかと考えておる。
どこのクリニックがいいのかさっぱりわからんが、
症例数の多い品川近視クリニックは注目に値すると考えておる。
ところがじゃ、今日発売になった週刊新潮8月7日号の記事を読んで魂消てしもうたのじゃ。
要はじゃ、普通の機械を黄色く塗って高級品だと偽って、
高い手術費用を巻き上げとるということのようじゃ。
あやしいのう。

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2008年07月30日

わしへの大坂夏の陣における評価について。

島津忠恒(ただし、この戦いに島津氏は参加しておらず、伝聞からわしの奮戦ぶりを推測して話したものじゃ)
「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」
細川忠興(ほそかわ ただおき)
「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」
大久保忠教(彦左衛門)
「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか」
「大坂御陣覚書」
「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」
『翁草』
「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」
『北川覚書』
「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候。」
『元和先鋒録』
「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」
『山下秘録』
「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」
真田軍の名は不朽のものとなり、武勲にあやかろうとした諸将がわしの首から遺髪をこぞって取り合いお守りにしたと言われる。
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2008年07月29日

わしの墓所について。

わしの墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されておる。
龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市)
わしの七女おかねの夫石川貞清(宗林)は、竹林院を始めとするわしの遺族を援助したことでも知られ、龍安寺にわし夫妻の墓を建立した。この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされておるが、非公開となっておる。
田村家墓所(宮城県白石市)
田村家出身の片倉定広(田村清顕の甥宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、田村家の墓所に墓が建立されたのじゃ。
長国寺(長野県長野市)
松代藩真田家の菩提寺じゃ。わしや嫡男大介の供養塔がある。
孝顕寺(福井県福井市)
わしの首を取った越前松平家の家臣西尾仁左衛門が、自家の菩提寺に首塚を建立したのじゃ。実際に首が埋葬されたかは不明なのじゃ(真田一族の奪還を恐れ、別の場所ともいわれておる)。
妙慶寺(秋田県由利本荘市)
四女・御田姫(顕性院)が真田家(わしの系統)の菩提寺として建立した寺。墓はないが位牌が残されておる。
一心院(秋田県大館市)
大坂の陣では死なずに、島津を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来する。島津家が徳川に恭順したため、その後は各地を放浪。寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したと伝えられておる(嫡男大介の墓もある)。
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2008年07月28日

わしの大坂夏の陣について。

翌年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させたのじゃ。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、わしはそれを見て堂々と大坂城に一時撤収したのじゃ。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれておるのじゃ。

ただし道明寺の戦いでは先行した後藤基次勢が真田勢の援軍が駆けつける前に壊滅し、基次は討死しておる。この戦いの前に家康は基次に寝返りを打診していたため、基次に対して大坂城内では謀反の噂が流れたのじゃ。そのため基次は死を決して先鋒を勤めたと言われておる。またこのときの指揮権はわしにはなく、大野治長が持っていたのじゃ。そのため基次の戦死の責任はわしだけにあるとは言えないのじゃが、真田勢の行軍の遅れが後藤勢壊滅の一因であるとも、また基次の心情を察し敢えて救援を遅らせたとも言われたのじゃ。本当は当日の濃霧のため道に迷い所定の時間に付く事ができず仕方なく後藤基次が戦いを始めたのじゃ。遅れて合流したわしは毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟したのじゃ。これを聞いた勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰め、退却の指揮をとったのじゃ。

豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していったのじゃ。わしは士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたのじゃが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗してしもうた。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、わしは勝永と共に最後の作戦を立てたのじゃ。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだったのじゃ。しかし毛利隊の前面諸将が独自の判断で射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなったのじゃ。そしてわしは「今はこれで終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは家康の首ひとつ!」とつぶやき、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄したのじゃ。特に毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進したのじゃ。

真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯であった徳川勢の隙を突き家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしたのじゃ(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。 しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を授けたのじゃ。享年49。

わし討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上したのじゃ。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わったのじゃ。しかしその後、大坂ではわしは生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われておるが、さらに噂では薩摩の島津家領内に逃隠れし墓もあると言われておる(子孫もありとの噂も)。実は秀頼と淀殿の遺体はあったのじゃが、どれが秀頼・淀殿の遺体(首)か分からず首実検が出来なかったというのじゃ。
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2008年07月27日

わしの大坂冬の陣について。

慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣でわしは毛利勝永らと、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田(宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張したのじゃ(これは知将である父・昌幸の策とも言われておる)。しかし籠城の策と決すると、わしは大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえたのじゃ。しかし、この真田丸を造る際、大坂方の他の武将はわしが徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していたのじゃ。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田信繁”(わしのことじゃ)として、その武名を知らしめる事となったのじゃ(わしが主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大坂の陣だけなのじゃ)。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまったのじゃ。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者としてわしの叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得しておる。しかしわしはこれを断ったのじゃ。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出てきおったのじゃ。これを聞いたわしは「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたのじゃ。[
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2008年07月26日

わしの大坂城入城について。

慶長19年(1614年)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山のわしの元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈ってきおった。わしは国元にいるおやじ昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城したのじゃ。しかし、入城の際のわしの容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため門番に山賊と勘違いされてしもうたのじゃ。大坂でわしの率いた軍は、鎧を赤で統一したので「真田の赤備え」と言われたのじゃが、わし自身については、それまで真田氏の次男坊としておやじ昌幸や兄者・信之の名声に隠れていたために評価は低く、家康もおやじ昌幸ではなく、無名のわしが大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたと言われておる。むかつくのう。
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2008年07月25日

わしの関が原の合戦について。

秀吉殿死後の慶長5年(1600年)に、五大老の家康が同じく五大老の一人じゃった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとわしは従軍し、留守中に五奉行じゃった石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、おやじと共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で徳川方の東軍についた兄者の信之と袂を分かつことになったのじゃ。
徳川方の東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、おやじとわしは居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍と上田城にて迎え撃ったのじゃ(これを第二次上田合戦というのじゃ。)。寡兵のわれらにてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかったのじゃ。
しかし三成率いる西軍は、9月15日に秀忠軍ぬきの徳川方に敗北を喫っしてしもうた。おやじとわしは、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところじゃったが、兄者信之の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、わしが竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われておる)。命からがらじゃ。
わしが蟄居中であった慶長16年(1611年)におやじ昌幸は死去。慶長17年(1612年)にわしは出家し、伝心月叟と名乗ったのじゃ。
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2008年07月24日

わしの本能寺の変の後について。

天正10年(1582年)6月2日に信長殿が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれてしもうた。織田家の関東管領であった滝川一益は、神流川の戦いで北条氏に敗れて伊勢に引き上げてしまうた。信長殿という後援が無くなったわれらは、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くことになったのじゃ。この際に当主の息子であったわしは、人質として諸大名の下を転々とすることになってしもうた。家康との間で第一次上田合戦があったのはこの時期じゃが、秀吉殿の仲介で和解したのじゃ。
おやじ昌幸は最終的に秀吉殿の傘下に入ったためわしは秀吉殿の下に留まり、のちに秀吉殿の家臣であった大谷吉継殿の娘を正妻に迎えておる。文禄3年(1594年)11月2日、豊臣氏名義で従五位下左衛門佐に叙任されたのじゃ。

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2008年07月23日

わしの武田家臣時代について。

永禄10年(1567年)おやじ真田昌幸(当時は武藤喜兵衛と名乗っておったが)の次男としてこの世に生を受けた。性ではないぞ。母は正室の山手殿というのじゃ。
天正3年(1575年)わしが9歳の時、われらが主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼殿が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北してしもうた。この際、おやじ昌幸の2人の兄(わしの伯父さん達じゃ)も亡くなってしもうたため、真田家はおやじが継ぐこととなり、わしはおやじに付き従い古府中(今の甲府市じゃ)を離れ上州(岩櫃城)に移ったのじゃ。これよりわしも真田を称するようになったのじゃ。
天正10年(1582年)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、われらは織田信長に恭順したのじゃ。3月19日、武田遺領の分割が行われ、われらは所領を安堵されたのじゃ。
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2008年07月22日

わしの名前について。

本名は信繁(のぶしげ)と言うのじゃが、武田信玄殿の弟君・武田信繁の名を「是非に。」とおやじの真田昌幸が信繁の息子に言って使わせて貰った名である。そのため改名はしていない。
講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られておるが、書状を始め、わしは生きているうちは「幸村」の名を使ったことはない。従って本来は「信繁」が正しいのじゃ。「幸村」の初出は江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』にあるのじゃが、その本が爆発的に売れてしもうたため、「幸村」とすることのほうが一般的となってしまい、後世になると新井白石の『藩翰譜』や、兄者・信之の子孫である松代藩の史書にまで「幸村」とかかれてしもうたのじゃ。
「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、わしの子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがあるようじゃ。
「幸村」という名はわしの死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるようじゃ。また、夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したという説もあるようじゃが、大坂冬の陣と大坂夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や兄・姉にあてた手紙にも「信繁」と名乗っておる。
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2008年07月21日

わしについて。

ユキムラこと真田信繁(さなだ のぶしげ)はだな、安土桃山時代から江戸時代初期に武将をしたおったのじゃ。生まれた年は永禄10年(1567年)とされておるがよく覚えておらん。49歳で死んでおる。
じいさんの真田幸隆はかの武田信玄殿の家臣であった。わしは大坂の役で大活躍じゃ。特に大坂夏の陣では、徳川本陣まで攻め込み、家康を後一歩のところまで追いつめたのじゃ。江戸時代になってから、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵家康に挑む天才軍師真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになったのじゃ。天才軍師じゃぞ。
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2008年07月20日

ブログ開設したぞ。

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ユキムラのブログ開設したぞ。みなの者、よろしく頼むぞ!
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